生き続けること

7月12日誕生日を迎え、また新たな1年をスタートすることができました。

こうして健康に誕生日を迎えることができ本当に感謝です。そして、私を産み育て今も元気でいてくれている私の母に感謝です。

今年に入ってからのこの半年間は、本当に「生き続ける」という事に自問自答しながら七転八倒してきた、今までの人生で体験したことのない、苦しくもかけがえのない大きな学びと気づきを得た時間でした。

1月中旬の義母のあまりにも突然すぎる急死で、これからの家族との関わり方に悩み、私自身を見失いそうになりました。これからは義母の生きてきた人生の延長線上を担って生きていくのが私の使命であり、それが正しい道なのではないだろうか?今までの活動や自分が目指そうとしていた経緯は、自分勝手な行為であり許されるものではないのではないか?という迷いと、義母が亡くなってから、すっかり意気消沈しきってしまった義父と共にする新たな生活がスタートし、心の中と日々の生活とが自分の中で上手くかみ合うことが出来ず、本当に苦しくて苦しくてしかたない毎日でした。何も解決できないまま、それでも毎日こうして朝は来て、人は衣食住の日々の暮らしを繰り返していかなくてはならない、などと考えてしまう中、義父と毎朝顔を合わせるまでの間に気持ちを切り替えるのが必死の毎日が暫く続きました。

しかし、その一方、意気消沈の義父と二人で向き合う朝食の時間は、とても静かにゆったり時が流れ、ポツリポツリと話してくれる思い出話は、義父の幼少の頃の、夫も知らない小さな出来事の話まで私に色々話して聞かせてくれました。

人は皆それぞれの人生があり、そしてその人自身の人生を歩んでいる、という考えれば当然ではあるけど、そこに考えが至りつくまでの時間は本当に苦しい長い時間でした。

義母には義母の、義父には義父の、そして私には私の人生がそれぞれの人生があること。

それから迷いは吹き飛びました。周囲の人にどう見られようが、比較されようが、正しいとか正しくないとか、常識がどうのとか、そんな事は本当にくだらない事であることに気づきました。

自分自身が幸せな気持ちでいないのに、どうして相手が幸せな気持ちになるでしょうか?自分の顔に笑みがないのに、どうして相手の顔を笑みにすることができるでしょうか?

私は割り切って、また自分の活動を再開することを決意しました。やりこなしていく算段を色々工夫し、義父と夫と私の3人の新たな生活の歯車が徐々に回り始めました。

今の義父はすっかり、逆にハイ!になり、毎日何だかとってもご機嫌で沢山お喋りをし、食事が美味しい美味しいと食べ、今まで殆ど乗ったことがなかった自転車まで乗り始めたり、お得意の詩吟を再開したり、携帯も持ち始めお友達に連絡して会う様になったり、家族の中で一番元気でパワフル状態になっています。

世の中は、未だ未だこの先予測不能なコロナ禍に陥っています。その中で、個人的にもこのような半年間を過ごし体感し、自分の中に落とし込めてこれた新たな気づきとこれからの決意は、今まで以上にハッキリと明瞭になってきています。

「生き続ける」ことはとても苦しくて苦しくて七転八倒もあるけど、それで終わりには決してならない醍醐味があること。人はどんな状況になろうと「生き続け」なければならないこと。そして自分自身の生き方を貫いて「生き続け」ていくこと。この気づきを大切に、これからまだ続く私の日々を生き続けていきたいと思います。