「折り合い」って

世の中に「折り合いをつける」という言葉がある。人は往々に大人の社会とか言っては「折り合いをつけて」様々なシーンで物事を処理し、先へと進ませていく。
誰かと何かで相違が生まれたとき「折り合い」をつけながら、生きていける人が、平和主義的に他との関わりを持って生きていける「賢い人」と言われる事が往々にある。
私も、もう当年とってイイ歳となって、様々なシーンに出くわし、そう過ごしてきた事も数知れない。でも本当にそれで良いのだろうか?どうしても気持ちがザワツキ落ち着かない、と思う時もかなりあり、どうしても「折り合いをつけられない」性分が顔を出し、お利口さんに立ち居ふるまえず、社会的には「お馬鹿」なのだろうと思うけど、ダメなんだな、、、やっぱり「折り合いをつけられない」時があるんだな、、、。

自分は、まーしょうがない、もうそうやって何年も生きてきちゃったし、たぶんこの先も同じ様にしか生きられないだろうと思う。でも最近、子供達が様々な岐路に立ったとき、どの様にアドバイスをして良いのか?と思う。果たして、私の性分を子供達に反映させてしまって良いのだろうか?
世の中、生きて行くための「折り合いをつける」の意義も、親として子供達にも言って話す。でも「折り合いをつけられない」葛藤が本人達にある場合、親として「それでも」と折り合いをつける社会的に賢いとされる方向を導くのか?本人の胸の「ザワツキ」に正直に向き合った方向を導くのか?と迷うシーンが多々ある。
正直、最後は「本人次第」と思う。
息子達は私でもないし、主人でもない。おギャーと産まれこの世に生を授かった時から、自らの人格を持った1人の人なのだから。
子供達は、割によく私に色々話してくれる。悩みを投げかけられた時、母としては無い知恵と知識の中で考えられる方向性を幾つか指し示してあげたい思いで話すが、最終的にはやっぱり「本人」なのだから。

息子達が私に話してくれるように、私も父に良く似たような問いかけをしていたな、と。
いつも最終結論は私だったけど、でも、自分の中の「ザワツキ」のボールを投げる壁になってくれていたんだろうと思う。壁がなければ、自分の中にあるボールを投げられない。壁にぶつかって自分にかえって来て初めて向き合える。この行為は、やっぱり壁打ちの壁になってくれる誰かがいなくちゃ出来ないのだと、私はもの凄くわかる。

まだまだ薄っぺらな壁だけど、これからもっともっと剛速球が投げ込まれかもしれない、それに備え、厚い壁になれる様にならなくっちゃ!

でも幾つになっても、私にも壁打ちの壁も必要。。。