満月をながめ

今晩は中秋の名月だった。仕事帰り、夜道を明るく照らすお月様がとても美しくそして優しく見えた。何だか夜道を走る私の車の先を照らし見守ってくれている様で。。
そう言えば、ふとこんな事を思い出した。20代の初めの頃だったかな?阿木耀子さんの書いた著書で「まぁーるく生きて 」を読んだ事を思い出した。確か、阿木さんの未だ若い頃、肩ひじを張りながら角ばった生き方から、色々な体験から角をそがれ徐々に人として「まぁーるく」なって周囲と接する事が出来るようになってきたエッセイだったかと思う。
正に、それを読んだ頃の私は、角々し、あちこちぶつかり、角が欠けてもその修復の仕方も分からず、みたいなホント今思うと不器用な生き方をしていたな、と思う。自分を追い込む事しか解決策を見つけられない様な。右か左か、白か黒か。自分にもそれを求め、そして人にもそれを求めていたかもしれない。さぞかし私の攻撃を食らった人は閉口しちゃってたかもしれないなーー。
人との距離の取り方や、相手を許すことや、そして自分を許すことも。「曖昧」な事の大切さを少しずつ少しずつ歳と共に知ってきた様に思う。「曖昧」の中にこそ「真」がある、とすら今は思える様になった。
何だか最近は大変な事、厄介な事に対し、以前なら頭と理屈で判断し絶対に拒否していたが「巻き込まれちゃってもいいかな?」などと思う事がある。どうなるか先が見えない物・事でも、感覚的に何か「面白み」を感じることがあれば「関わってみようかな?」と思うシーンがある。でも、その「面白み」と感じるとは、今までの体験の中で、知らず知らず身につけてきた中で「鼻が利く」ようになってきたのかもしれない。
十五夜お月様に照らされて、そんな風に思うなんて「まぁーるく生きて」に近づきつつあるのかな?いや〜〜、まだまだ角々しく、あちこちぶつかり欠けたまんま、も沢山あるな〜〜。。