近視眼からの脱却

今、私が座っていつも作業をしているこの場所の窓の前に、あと数ヶ月したら十数階のマンションがそびえ立つ。今こうして窓を開け、秋風を心地よく感じ、うろこ雲と向こうの山並みを眺めながら、ゆっくりと構想を練る空間が奪われてしまう。
数年前、東京から長野へ来た私だが、都会の喧騒から離れ、信州で暮らす喜びを感じながら暮らしてきたが、ここにきてこんな事態に合わなければならないなんて、非常に非常に悲しい限りだ。。
天気の良い日も、雨の日も、夕暮れの時や、夜明けの頃も、いつもこの場所で外を眺めては、プライベートや仕事の辛いことも嬉しいことも色々想いながら、眺めてきたこの風景が、数ヶ月したら、茶色のマンションの壁にとって変わられてしまうなんて。。
ア”−、どーしてどーして、田舎を田舎のままにしておかないんでしょ。(田舎という言い方は、愛するが故の言葉です。)田舎は都会のマネをしたら価値が下がるという事を、どーして分からないのでしょうか?都会にはない価値があるからこそ、人はそこを求めてやってくるのに。。せっかく肥沃な土地があるこの環境なのに、人はどーして草木の育つ地面に居をおきたいと思わないのでしょ?
どこもかしこも、金太郎飴みたいに、どこを切っても●●マンション、●●ホームセンターになっていく日本。
戦後から63年。もう、そろそろ貧質量産、金太郎飴の近視眼的なところから、脱却しなければ、本当の意味で貧しい国となってしまうだろう。その膿が、ここに来て色々出始めている現実。本当の戦後は、実はまだ終わっていないのかもしれない。。。