「恥をしのんで」から

今回の小沢党首の辞意撤回劇。クローズされた大連立構想会談が引きがねになり、突然の辞意表明から2日後の撤回劇と、その報道されている状況変化事実からは、誠に小沢党首自らの発言の通り「恥をしのんで」という結末だ。しかし、何故野党一党の党首である立場で、連立構想を持ち帰ったのかの意図こそが重要であるのに、そこの部分は、もとの鞘に収めるがために沈静されてしまった。
自民党を離党し、2大政党制の必要性を求め、新党を作っては壊し、あらゆる打破の道を探りながら渡り歩いてきた小沢一郎氏の中には、自民とある意味、連立という形をとってでも、今のこの日本が抱える沢山の課題を解決していく道を見出す必然性を考えての苦渋の提案ではなかったのではないか?と思える。
政党、派閥と日本の政治は、課題解決の前に立ちはだかる組織図が常に邪魔をし、本来の課題解決から反れてしまう結末となる。自由な発言が押さえつけられ、組織の利となる言動のみが評価される。そこから外れた言動は「失敗」として叱責される。
この仕組みは、政治だけではなく、民間企業も学校教育現場も地域社会も、今の日本の姿そのものだと思える。
もっと「失敗」があっても良いではないか「恥ずかし」くたっていいじゃないか!と私は思う。前向きな「失敗」や「恥」があってこそ「成功」を導けるはずではないだろうか?「失敗」が許されない社会に発展はない。
今回の小沢一郎氏の言動劇は、決して私利私欲の為ではなく、日本国を憂い考えた末での、みっともない翻弄劇であった。どこかのゴルフ三昧の親分や天下りを狙う官僚とは、決して次元の異なるところでの失敗劇であった。
大連立が得策とは決して思わないが、党や派閥を超えたフィールドで日本国の舵を熟慮する必然性がある。その現実から決して目をそらさず、しっかりと日本国の舵をとっていって欲しい。