メディアの責任

亀田親子の処分について毎日のように報道されているが、スポーツ選手として常識云々に関しては、大勢の人が感じているように、今回の処分は当然の事と私も思って報道を観ている。
しかし、報道を観ていて思うことは、メディアの何とも都合の良い変身の仕方だ。今までも亀田親子の試合の行き過ぎたパフォーマンスや相手選手に対する威嚇行為など、スポーツマンシップとして由々しき行為として報道すべきであったはずなのに、勝ち進み、益々派手派手しくなっていく亀田兄弟をメディアは散々「型破りの意気の良い若きボクサー」ともてはやし、スポーツ番組のみならず、バラエティ番組やCMまで引き込んでいたではないか!とこの変身ぶりに、亀田親子にも増して、私は報道メディアのあまりにも社会的な無責任な在り様に憤慨を感じている。
恐らく、今回の試合以前にも隠れた反則行為があり、報道側も多かれ少なかれ解っていたはずではないのか?でも勝者にスポットをあてるメリットの方があると捕らえるメディアは、敢えて今まで亀田親子の言動を厳しく追求してはこなかった。
波が寄せては引いていくように、同じ話題が集中的に日々繰り返され、そして次なる面白い話題が起こるとあっさりと変わる報道。選挙戦にしても然り、半年前の司会者のコメントは、全く逆の立場で話している場面も多々ある昨今だ。メディアの勝手な視点で流れる情報によって、市民は感覚を洗脳される。報道メディアの果たすべき役割は非常に大きいと痛感する。
TVのみならず、インターネットの氾濫する情報化社会で、我々はどこまで自身の五感で物事を判断する事が可能だろうか?食も金融も教育も政治も、何が真であるかを見抜くことなど難しい、危うい社会だと恐怖を感じる。