ありたき姿

先日、子供の高校受験の為の高校見学会があって行ってみた。息子の中学から参加の父兄は私一人で、何だか来てはいけなかったかしら?と気恥ずかしく思ってしまったが、他の中学からは数人ずつ参加の父兄があった。息子の高校受験だが、何だか私自身が改めて「学び」「生きる姿勢」「志し」といった人として生涯抱きつづけるべき事を、高校の説明会を通して考えさせられた。
校長先生のお話の中で心に残ったのは「ありたき姿、どう自分は生きていきたいか?を良く考えてみてください。」という言葉。「○○高校に入る為、○○大学に入る為」の先にある「ありたき姿」が重要である事。仮に目指していた高校・大学に入学できなかったとしても、ありたき姿を持っていれば、幾通りもの行き着く道をまた見つける事ができるのだと思う。というか自ら辿り着く道を探し出せるのだろうと思う。
終戦記念日が近づくと戦争当時を再現する番組が最近多いが、当時は「生きる」という確固たる「ありたき姿」があり、人々は必至に「生きる」為の幾通りもの道を、それぞれに探り出し、気丈に歩いたのだと思う。
物も情報も豊かな現代の社会なりの「ありたき姿」を、限りある「生」を考えれば、現在の私達も個々に抱けるものと思う。
15歳の息子と私とでは、将来への可能性も全く違うけれど、この歳なりに「ありたき姿」を抱いて道を探り出したいと、今改めて思っている。
10代子供の頃抱いていた「ありたき姿」20代結婚の時抱いていた「ありたき姿」歳を重ねたそれぞれに自分が抱く「ありたき姿」が違ってくるけれど、幾つになってもスタートをきる事はできると信じたい。